セルフイメージのワークを始めた。
そういうことに久々に取り組みたくなってきたのにも意味・理由があるんだろう。
何をやっても思うように行かなかった頃、とある著書に出逢って、自分の心が反応するほうへ「とにかくやってみる」ことを学んだ。
そこから比較的最近までは何とかこの概念の範疇でやって来られたけれど、ここにきて、これだけではこの先を突破するのが難しいような気がしていた。
なんとなくそんな気がし始めから多分2年くらい経つだろうか。
世界はよくできてるもので、私の心と人と出来事が順繰りに交差してそこそこ自分なりの結論が出始めたと思ったら、教える者が現れる。
経験上、行動が変化をもたらし、一定の不安を解消するのは事実だと思う。
そもそも行動することすらできぬままに現実を嘆いたり、不満をこぼしている人々は世の中たくさんいる。
それは不安や畏れが原因で引き起こされているというケースも多い。
その状態の人がアクティブに行動するようになれば、当然のことながらその分だけは状況が変化していくことになる。
結果、以前には得られなかったものをいくつも得られるようになるけれど、永遠に終わりのない闘いの道を進んでいる感じがして、いつ頃からか何かが違う気がしていた。
一生懸命身を削って頑張ることも、努力を重ね継続することも、もちろん大事。
でも時々、たとえば自分ほど必死に努力してそうもないのに、何となくいつもうまくいってるようにみえる人たちを見て、ずっと「何でなんだろう?」と不思議で仕方なかった。
もちろん彼らだって彼らなりの努力はしていると思うけどね。
でもそうじゃない何か、自分との決定的な違いがある気がしていた。
おかげさまでこれまで持ち前の努力性と根気に巡り合わせが重なり、それなりに成し遂げられたことも得られたこともある。
だからそれなりに自分はラッキーで幸せだと思ってきたし、今もそう思っている。
そんな中、少しずつ大きくなっていた違和感。
これを払拭し、この先の自分の世界を変える鍵は「セルフイメージ」だと知った。
セルフイメージが過小評価されたまま、どんなに行動をしても結果は思うようにはついてこない。
つまり、なぜか結果を出しているように見える人たちというのは、この「セルフイメージが満たされている」ということ。
仮に同じだけ努力しても同じことをやっても結果が異なる不可思議な現象も、これを理解しているととても納得がいく。
自分を受け容れることをこの10年以上テーマに過ごして来た。
ただそれは、”とにかく行動することで得られる評価や実績”に頼って、自分を受け容れようと私はしていたのだと思う。
心を満たす水は、他者から与えられたものだとあっという間に渇いてしまう性質があるのだという。
だからもっともっと、早く急がねば・・・そんな焦燥感にやがて人は飲み込まれてしまう。
もっとも重要なのは、「自らの手で心に水を注ぐこと」。
彼らは少なくとも今現在はそれができている人、もともと感覚的にそれを知っている人たちだとわかった。
では、自分自身はどうだったか・・・?
心の深層を掘り返してみると、この10年以上ずっと、他者から与えられる水を求め続けていた気がする。
というよりは、どこかのタイミングで一旦自己否定した自分がいて、「他者からの水でしか自分を受け容れられないはず」と思い込んでいたように思う。
それでも私がラッキーだったと思うのは、今現在、基本的には”やりたくないことはやってない”ということ。
でも一番やりたこと、一番好きなことをやれてるか?と訊かれたら、厳密にはそうではないと思う。
今やっていること、やれていることには「私でも大丈夫」という自信をたくさんもらった。
だからすごく感謝しているし、それなりにやりたいと思って楽しめもする。まあ好きなほうに入ることだとも思う。
これまでやってきたことを今後も続ける上でも、ここからまた新たなステージに向かっていく上でも、この「セルフイメージ」の上方補整がとても重要な意味をもつ気がしている。
私自身が、こういったワークを通じて実際に変化を経験したり、自身に完全にインストールすることができたら、歌唱カウンセリングなどの仕事にも取り入れてみなさんにシェアしていこうと思っている。
つくづく、自分という人間は不器用で回り道気質だなと苦笑いしたくなるけれど、その分だけ誰かと共有できるものを得ていると思えば、そこに何らかの意味がある気がしてくる。
時間をかけて、少しずつ自分を取り戻してみよう。
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